皇女姉妹は、ゆるく波打つ赤茶色髪と宝石のように輝く青緑色の瞳という、よく似た外見をしていた。
そんな瓜ふたつと言っても良い外見とは異なり、おっとりしていて思慮深いが病弱な姉メアリ、勝ち気で頑固ではあるが曲がったことが大嫌いな妹ミレダと言うように全くと言っていいほど正反対だった。 ルウツの法では皇位継承権は男女に関わりなく皇帝の長子が持つ。 二人には一人従兄もいたが、皇帝の第一皇女たるメアリの即位は既定路線となっていた。 物心が付く頃から、既にミレダはしかるべく時は姉を護ることを自らの役目と理解し、その為に剣を学んだ。 そんな彼女の師となった人は、ルウツ皇国神官騎士団長のアンリ・ジョセという人物である。 優れた師についたことにより、天性の才能が開花したのだろうか、彼女の腕はめきめきと上達していった。そんなある日、ミレダは途切れ途切れに子どもの泣き声を聞いた。
宮殿内の衛兵や侍従の居住区域には無論その家族と子どもも住んでいるが、それが後宮まで聞こえてくるはずはない。 けれど悲痛な声は途切れ途切れに響いてくる。 どうしてもそれが気にかかり、ミレダは姉に尋ねた。 だが、メアリは予想に反してこう答えた。何も聞こえない、と。
自分がどこかおかしくなってしまったのだろうか。
一人思い悩むミレダの耳に入ってきたのは、うわさ好きな侍女達の他愛のないお喋りだった。 この間、皇都で一斉に行われた『草刈り』で、一人の子どもが捕まったらしい、と……。もしかしたら。
そう意を決し、ミレダは師であるジョセに相談した。
いかに親が敵国の間者(かんじゃ)だったとはいえ、その子供に罪はないはずだから、納得がいかない。 何とかする事は出来ないか。 けれど、その言葉を受け止めるジョセの表情は厳しかった。 不安げにこちらを見つめてくる皇女に、ジョセは重い口をようやく開いた。「恐らく、その子は正規の裁きは受けていないでしょう。我々が救い出しても誰も異を唱えることは出来ないと思われます」
庭園を走ることしばし、突然草むらががさがさと揺れる。 剣を構え恐る恐る歩み寄るミレダであったが、ややあってその顔には安堵の表情が浮かんだ。 「師匠様、こんな所で何を?」 そう、そこに身を隠していたのは他でもなく、ミレダの師アンリ・ジョセだった。 その頬には無数のひっかき傷が赤く浮き上がり、噛みつかれたのだろうか、歯形が残る手には、マントにくるまれた何かを抱いている。「……お陰で助かりました。侯の懐に飛び込むなど、殿下のご命令とはいえ我ながら無茶をしたものです」 武人らしからぬ穏やかな灰色の瞳に苦笑に似た光を浮かべるジョセ。 慌ててミレダは駆け寄り、その腕の中に納まっている物をのぞき込み、思わず手にしていた剣を取り落とした。 抱かれていたのは他でもない、全身に傷を負った少年だったからである。 そんなミレダに、ジョセは既に司祭館には沐浴と薬師の手配はしてある、と告げた。「宰相の懐……? では、西の塔へお一人で?」 西塔はルウツ国内にある牢獄でも最も劣悪な環境と言われる所だ。 そして今目の前で苦笑を浮かべているジョセは中に潜り込み『その子』を助け出してきたのである。 正規に裁かれることなく捕らわれた敵国の間者の子どもを。「よりにもよって、最下層に押し込められていました。殿下のおっしゃる通り、確かに子どもに対してこの仕打ちは……」 そう言いながらジョセはその子どもの顔を見やりながら唇を噛んだ。 乱れたセピアの髪に、涙の後が残る血の気のない白い顔。 そして身体の至る所には非公式な『尋問』によるあらゆる種類の傷が刻まれ、更に両手首と首には重い枷がはめられていた。「師匠様
数日後、意識を取り戻した少年は司祭館に孤児として引き取られたのだが、その様子は生きているだけの人形の様だった。 寝台に横たわったまま、身動きすることなく虚ろな瞳で天井を見つめている。 口許まで食事を近づけられても全く反応を示さない。 命を繋ぐため、看護役の神官が無理矢理に飲み込ませるという状態だった。 傷が治って、ようやく自力で起きあがれるようになってからも、他の子ども達の遊びの輪に入っていくこともない。 『殺意の暴走』という同じ過ちを繰り返さないようにとの配慮で、首から下げられた『まじない』の呪符を常に握りしめ、笑うこともなければ、泣くこともない。 日々言葉無く虚ろな視線を空(くう)に向けるだけだった。 そして、彼は未だ、自分の名前を尋ねられても答えようとはしなかった。 家族という何ものにも代えがたい拠り所が、突然破壊されたのだ。何の前触れもなく、しかも目の前で。 当然と言えば当然のことなのかもしれない。 だが師との約束を守るため、ミレダはそんな彼をどうにか現実世界へ引き戻そうと頻繁に足を運んで様々なことを話しかけた。 けれど彼は、やはり何の反応も見せなかった。ある日ミレダはいつものように少年の所へ向かう途中、最も会いたくない人物と鉢合わせしてしまった。 そう、宰相マリス侯と、その取り巻き達だ。「これは殿下、ご機嫌麗しく拝見し喜ばしい限りです」 うわべだけの礼儀正しい言葉に、ミレダは無言で頷く。 そのころ父である皇帝は病の床にあり、ルウツの実権は完全にマリス侯の手に落ちていた。 慇懃(いんぎん)な態度とは対照的な勝ち誇ったような視線から逃げるように、ミレダはそのまま目を伏せる。 けれど唐突にミレダはある事を思った。 ここで飲まれてはいけない。 立ち向かわなければ、あの少年を助けることができようはずもない、と。 ミレダ
ささいなきっかけで自我と言葉を取り戻した少年は、大司祭直々に神官となるべく修練を始め、ミレダと共にジョセの手ほどきで剣を学ぶようになった。 しかし、意外なことに剣術においてはすぐにミレダと対等に打ち合いが出来るようになったが、神官の領域では『司祭並みの力は持っている』にもかかわらず、全く成長の兆しがなかった。 成人する直前、未だ神官としては最下位の修士の位についていた彼は、ある選択を迫られていた。 このまま司祭館に残り修練を続け、一つ上の位である導士となった後、神官騎士団に入るか。 或いは司祭館を出て、直接皇帝に仕える通常の武官となるか。 正直、ミレダは彼に前者の道を選んで欲しいと思っていた。 そう口添えをして貰うべく、カザリン=ナロードに彼女は訴えたが、大司祭は僅かに顔を曇らせて言った。 あの子は子どもの頃の悲しい事件で、『聖職者』である以前に『人間』として生きるために必要な何かが欠落してしまっている。 そして本人もそれに気付いているが、その隙間を彼自身が埋めようとはしない、と。 それを聞いたミレダはすぐさま、自室で『祈りの書』を黙読する彼の元へ向かった。 お前にはそれだけの能力があるのに、どうして生かそうとしないのか。 血相を変え、そう怒鳴り込んできたミレダに、彼は本を閉じながら素っ気なく言った。 自分は武官になるつもりだ、と。「そんな……そうしたら、乱戦にかこつけて味方に……宰相の息のかかった奴らに殺されるのが関の山だぞ!」 そう主張するミレダに、彼は常の如く表情を変えることはない。 そこまで見くびられているとは思わなかった、とうそぶいて見せてから、藍色の瞳をミレダに向けた。「どのみち、俺は司祭……聖職者になるには致命的な禁忌を犯してる。このままここで燻
「……万事予定通りに運んでおります。この様子ですと、間もなく戦闘開始となりましょう」 美しい女帝が報告書の末尾まで目を通した頃合いを見計らい、宰相はかしこまってそう告げる。 ルウツ皇帝メアリは無言でうなずき、手にしていたそれを宰相へ向け差し出した。 恭しくそれを受け取る自分よりも遥かに年長の重臣に、メアリは小首をかしげながら尋ねた。「確かに、今の所はそなたの予定通りのようですが……混乱をきたすという戦闘中に、そう容易(たやす)く行きましょうか?」 皇帝の言葉を受け、宰相は恐れながらと前置きをした上でこう述べる。「混乱しているからこそ、実行が可能ではないかと思われます。無論、例の者が万一失敗したときの手はずも滞りなく……」 その返答に、メアリは無邪気と言ってもいい微笑を浮かべた。「さすがに、これまで権力の中を泳いできただけのことはありますね。では、あえて聞きますが……」 何なりと、とかしこまるマリス侯に、メアリは少々意地悪な口調で問いかける。「『彼』が無傷で戻ってきた場合は、一体どうするのです?」「その時に応じた然るべき手段を取るまでです。陛下におかれましては、何もご心痛に及びません」 生真面目に頭を垂れ、自分の娘ほどの年齢の女性に対し臣下の礼を取る宰相。 そんな忠臣に、メアリはあどけない少女のような表情で答える。「わかりました。この件に関してはそなたに全て一任します。……それにしても」 ふっと、唐突にメアリは溜息をつく。 今度は宰相が首をかし
当初の予定通り、別働隊が先陣を切って敵とぶつかったという報告が本隊にもたらされた。 予想以上に早い到達に、敵は総崩れとまではいかなかったものの、いったん引いて陣形を立て直し、味方の到着を待っているかように見えるという。 ならば、その前に叩き潰してやればいいんだな、そうシーリアスがうそぶくと、周囲はどっと沸き立った。 その頃ユノーの剣技や馬術は、歴戦の勇者とは行かないまでも並みの騎兵と遜色ない物になっていた。 その事実に一番驚いていたのは、他でもないユノー本人である。 戸惑うユノーに僅かに苦笑を浮かべながら、命令を下した張本人の司令官は言った。 虫も殺せないような優しい顔をしていても、その中に流れる血は紛れもなく武門の家柄のそれだったのか、と。 明日にも本隊が戦場に到達するだろうという段になって、シグマが何気ない口調で前を行く司令官に尋ねた。「大将、何で坊ちゃんにまともな攻撃方法を教えないんですか?」 素質はあるんだから、と言うシグマに指南役だったカイもうなずき同意を示す。 事実、ユノーはこの行軍の間にカイから教えられた防御の基本形を全て拾得していた。 その剣技はカイの剣のみならず、シグマの戦斧をも弾き返すほどにまで上達していたのである。 だが、そんな両者にセピアの髪の司令官は肩越しに素っ気なく答える。「取りあえず今回はお預けだ。あせって付け焼き刃で覚えても逆効果になる。前にも言ったがな」 第一、初陣の仮騎士待遇に頼るようでは蒼の隊の名がすたる、と皮肉に笑って見せた。 心外、とむくれるユノーに、シーリアスはやはり肩越しに言う。「戦力外と言っている訳じゃない。貴官が防御に徹してくれれば、充分俺達が戦える。生きて帰ればこの先いくらでも機会は転がっている。何も急いで手を汚すこともないだろう?」「けれど……自分も一応、隊の一員として……」「生半可な知識で人を殺しても、下手をすれば混乱に陥るのがオチだ。敵の攻撃より、そっちの方が洒落にならない」「&
「何をしている、ロンダート卿! 早くその子を親と同じ所へ送ってやれ!」 耳慣れぬ鋭い声が、微かに聞こえてくる。 それに答えるのは、懐かしい父の声だった。「で、出来ません! 敵国に連なる者とは言え、幼い子どもを……」「子供一人敵国に残されて幸せだと思うか? ひと思いに殺してやるのが思いやりだろうが!」 激しいやりとり。 無数の白刃がその答えを待つかのように、ある一か所を取り囲んでいる。 が、一際豪奢な装備を付けた分隊長と思しき人物が一歩踏み出す。「ならば、私が貴官に代わって親のもとへと送ってやる! そこをどけ!」 刹那、幼い子どもの叫び声が空間を支配する……。 そのあまりの悲痛さに、ユノーは思わず耳をふさぐ。「……罪を背負った人間は、死後安住の地へ導かれることなく、地の底で永久に焼かれ続ける。あくまでも昔猊下から聞いた話の受け売りだがな」 固い声がユノーを現実世界に引き戻した。 感情を写さぬ藍色の瞳は、遥か彼方に向けられていた。「それが事実だとしても、お前は戦場へ行くつもりか? 」「……では、ご無礼と承知でお尋ねしますが、どうして司令官殿は戦場に身を置かれるという道を選択なさったのですか?」「死ぬため、かな。……俺は今まで、『死ぬ』為に生きてきたようなものだから。全てが無くなったあの時から……」 感情のない声が、即答と言って良いほどのタイミングで戻ってくる。 凍り付いた藍色の瞳は、彼方を見つめたままだ。 『生への執着こそが蒼の隊の必須条件』と言った人がなぜこんなことを言うのだろう。 しばしためらった後、ユノーは再び食い下がる。「……それではあまりにも寂しくはありませんか? 誰もそれを止めようとはなさらないのですか?」 低い笑い声が、それまで感情を表さな
そして、夜が明けた。 遥かに望む山の端がほのかに光り始める頃、『最後のとどめ』をさすべく残っていた蒼の隊精鋭は食事もそこそこに各々武装を整え始めている。 が、彼らを指揮するはずの司令官の姿がどうしても見あたらない。 不安げに周囲を見回すユノーに、声をかけてきたのはシグマだった。「よお、坊ちゃん。大将起こしてきてくれないか」 はい、解りましたと一歩踏み出そうとしてから、ユノーはその違和感に足を止める。 確かに司令官は負け知らずの猛者だが、そんな人がよもや決戦を前にして寝過ごすなどということは考えられなかったからだ。 そんなユノーの心中を察してか、シグマは飽きれたような表情を浮かべている。「いや、いつものことだよ。大将は決戦前になると寝坊する癖があるのさ。何だか知らんけど」 涼しい顔で言ってのけるシグマに、堅物の参謀長はあからさまに苦々しげな視線を向ける。 その怒りの巻き添えを食らう前に、ユノーは司令官の元へ向かって走った。 見えてきた天幕は、一軍の将が使うにしてはあまりにも質素な物だった。 何も言わなければここに指揮官が居るとは誰も思わないだろう。 だが、それとは異なる理由でユノーは不意に足を止めた。 小さな天幕から漂ってくる空気は明らかにおかしい、そう感じたのだ。 けれどこのまま立ちつくして、その人の目覚めを待つ訳にもいかないので、意を決してユノーは入口の幕を上げた。 そこから溢れ出てきたのは、草原では感じるはずのないかび臭くじめじめした空気だった。 あまりの悪臭に堪えかねて、ユノーは思わず鼻と口を塞ぐ。 そして天幕の中へ足を踏み入れると同時に、無数の思念が濁流のように無防備なユノーの脳裏へ流れ込んできた。──生かして貰っているだけ有り難いと思え、罪人の子め……────お前は一体何人殺したか知っているのか? この虐殺者が……── それから耳を塞ぎたくなるような下卑た笑い声が続く。 落ち着け、と自分に言い聞かせ、ユノーは固く閉じた目を恐る恐る開く。 果たしてそこ
居並ぶ将兵の前に姿を現した『無紋の勇者』は、おもむろに口を開いた。「最衛隊として、五百を本人に残す。負傷者は可能な限り収容しここに運べ。指揮はシグマに任せる」 この状況では妥当なその言葉に、立場の異なる二人の顔に図らずも全く同じ失望の表情が浮かぶ。「大将、それはないよ! せっかくここまで来たのに、ひと暴れもできないなんて」「後衛の守りは、是非私に…」 ほぼ同時に口を開くシグマと参謀長。 が、それを予想していたのか司令官は表情を動かすことなく答える。「ここは我々の最後の砦だ。我々に万一の事が起きた場合は、それなりの経験がある者に退却の指揮を執って貰いたいからこそシグマに任せる。参謀長たるあなたには、戦場で若輩な俺を補佐して欲しい」 その人にはしては、珍しく正論である。 確かに常勝と呼ばれている蒼の隊ではあるが、それが今回もそうであるとは限らない。 蒼白になる参謀長の隣でむくれているシグマの肩を、カイがなだめるように叩いた。「まあ、その分自分が叩きのめしてくるからさ。少しは我慢しろよ」 長年の戦友にたしなめられてもなお、シグマは納得がいかないとでも言うように頬を膨らませて腕を組む。 その時、最前線からの伝令が駆け込んできた。「第二部隊、突入しました! 現在混戦状態となっております!」 無言で頷くと、『無紋の勇者』と呼ばれているその人は高らかに命じた。「総員騎乗! 友軍と合流する!」 ガシャガシャと金属がぶつかり合う音が響く。 それに遅れまいとしてユノーは慌てて鐙(あぶみ)に足をかけ、鞍の上に自らを引き上げる。 既に馬上の人となっていた司令官は宝剣を頭上にかざす。「”見えざるもの”の加護よ、我らが剣に宿り賜え!」 威風堂々としたその姿と声に、力強い鬨(とき)の声がそれに応じる。 最高潮に達しようとしていた戦意に、ユノーははからずも身震いする。 シーリアスは、邪気を切り払うかのように掲げた宝剣を水平
「将軍、聞いているのか?」 ついに大公はしびれを切らしたようだ。 乱暴に椅子を蹴り立ち上がると、やり場のない怒りを表すかのように荒々しく両の腕を眼前に振り下ろした。 そして、先程から彫像のように身じろぎ一つせずひざまずいたままのロンドベルトを、ぎらぎらと光る瞳で見下ろす。 なるほど、結局この人はこの程度の人物かか。 言うなればあの大臣と同じく、権力こそ至高と信じて止まない愚か者。 似たもの通し、さぞや大臣と話があうだろうな。 内心そんな不敬なことを思いつつ薄笑いを浮かべて、ロンドベルトは今一度深く頭を垂れながら言った。 「では申し上げます。私は殿下と同じ物を見てきた。そう思っております」 「……同じ物、だと?」 どうやらロンドベルトの返答は、大公の想定外の物だったらしい。 わずかに首をかしげると、大公は腰に手を当てる。 白黒の判断を下しかねているその視線を痛いほど感じながら、ロンドベルトは静かに告げた。 「戦いのない、平和な世界でございます。すなわちそれは……」 「統一された大陸……」 「御意」 ロンドベルトは 短くそう答えたが、嘘はついていない。 実際、ロンドベルトは自らの運命を翻弄した戦を憎んでいた。 戦という存在を、この世から葬り去りたいと思っていた。 『大陸の覇権』とやらが誰かの手に収まれば、それを巡る争いは終わる。 問題はそれを手にするのは誰か、ということである。 ロンドベルトは、今その点に関しては言及していない。 極端なことを言ってしまえば、ルウツ皇帝がそれを手にしても構わないし、あるいは全くうかがい知れない第三者でも良いのである。 大公から、お前は統一された世界を望むのかと問いかけられたので、『是』と答
この国の中枢の建物に、武人である父親に手を引かれて初めて足を踏み入れたのは、まだ幼い時だった。 その理由は、他でもない。 光を映さぬにも関わらず物を見ることができるという彼の力を軍事に利用するためだった。 請われるままに敵国の内部に視線を向けた時、彼は見てしまったのである。平和な日常に振り下ろされた粛正という名の刃を。 深紅に染まった板張りの床。 そこに倒れ付す男と女。 無数の白刃を向けられ、立ち尽くす一人の少年。 激痛にも似たその光景は、ルウツに潜入している間者の『草刈り』の瞬間だった。 こうして国の機密に触れてしまった彼らがそう簡単に野に解き放たれる訳もなく、戦死という形で父親は始末され、ロンドベルト自信も幾度となく危うい目に遭っている。 こんなふうに彼の運命を狂わせたのは、他でもなく……。 「これは将軍。お疲れのところ、わざわざのお運び痛みいる」 背後からかけられた慇懃な声に、ロンドベルトはわざとらしく身体ごと振り返る。 陰湿な視線を投げかけてくるのは、内務大臣。 ロンドベルトに敵国内部を見るよう強要した、諜報部門に属していたの父親の知人その人だった。 おそらく持てる情報網を駆使して現在の地位にのし上がったのだろう。大出世と言って良い。 積もる話なら、それこそ山ほどある。しかも十割が恨み言だ。 ロンドベルトは不快な表情を見せぬように無言で一礼する。 その思惑通り、肩まである真っ直ぐな黒髪がこぼれ落ち、その顔を隠す。 その行動をどう取ったか定かではないが、大臣は一つうなずく。 もちろん大臣はロンドベルトの目の秘密を知っているので、自らの一挙手一投足が見られているのを理解している上での行動だろう。 ロンドベルトが再び顔を上げるのを待って、おもむろに大臣は口を開いた。 「まだ
窓の外には『平和な日常』がある。 朝目覚め、昼働き、夜眠るという、戦いとは縁もゆかりもない日々が。 果たしてこの大陸て、無数の人々が戦火によってその生涯を終えていることを、どれほどの人間が知っているのだろうか。 何の変哲のない、ありふれた日常を夢見て死んでゆく人々を心に留めている人間がどれだけいるのだろうか。 そんなことを考えながら、ロンドベルト・トーループは笑みを浮かべた。 皮肉に満ちた死神の笑みを。 ザハドの戦が終結してから、十日と少しが経過した。 本来ならば本隊と共に任地アレンタへ戻っているはずの彼は、エドナ宗主であるマケーネ大公直々の命令により、エドナの首都に滞在することを余儀なくされていた。 彼にとって、首都は最も多感な少年時代を唯一の肉親である父親と過ごした場所である。 しかし、その父は既にこの世を去り、残っているのも楽しい思い出ばかりではない。なぜなら武家の家に生まれたにもかかわらず光を持たなかった彼は、力が発現するまで父親との関係はあまり良いとは言えなかったからである。 今回も待っている運命は十中八九、彼にとって喜ばしいものではないだろう。 その根拠は、彼自身が一番良く知っている。 屈辱的な負け戦となったこの度のザハドの戦い、そのきっかけを作ったのは、ロンドベルトに他ならなかったからである。 常勝軍団イング隊を率いザバドの地でシグル隊と合流し、敵蒼の隊を殲滅(せんめつ)する。それが今回彼に下された命令だった。 が、彼は意図的に南下を遅らせシグル隊を単独で敵にぶつけ、ほとぼりが冷めようといったところで行軍を再開したのである。 結果、イング隊の損害は皆無に近かったが、不幸なシグル隊は壊滅的被害を受けた。 自軍を守るために最良の方法を取ったわけではあるが、シグル隊を派兵したアルタント大公が黙っているはずがない。 エドナでは
国境の向こう側にいる人間は、この風景を見たら何と思うだろうか。 自らが犯した罪の重さを目の当たりにし、深く後悔するだろうか。それとも、最早何も感じぬほど既にその神経は麻痺しているのだろうか。 丘陵を埋め尽くす無数の墓碑を見やりながら、エドナ連盟アレンタ方面軍通称イング隊司令官付き副官ヘラ・スンは深々とため息をつく。 物言わぬ墓碑の群れは、戦場から帰還した彼女達を出陣した時とまったく変わらぬ様子で迎えた。 いや正確に言うと、その数は出陣時よりも増えているかもしれなかった。 戦が続く以上死者は増える。わかりきったことなのだが、いざそれを改めて目の前に突きつけられると、言葉も無かった。 ここは大陸の北の果て。 大陸全土で信奉されている『見えざるもの』の聖地にもっとも近い場所、と言えば聞こえはいいのだが、早い話が僻地である。 その最果ての地に駐屯しているのが『不敗の軍神』、もしくは『黒衣の死神』と恐れられているロンドベルト・トーループである。 そのような名声を得ている人物が、なぜ首都から離れたこんな所に配されているのか。 理由は、彼が戦において常に紛うことなく敵の進路を言い当てるからである。それはまるで不思議な力に裏付けられているようであった。 事実ロンドベルトは不可思議な力を持っていたのだが、それを知るのは上層部のごく一握りの人物と副官のヘラに限られていた。 その能力をもってして、権力の転覆を謀られたらたまった物ではない。 エドナの宗主は、数ある大公家から持ち回りで選出されるのだが、普段いがみ合っていた彼らの意見はその点では一致していた。 そして、下された命令にロンドベルトが従ったのは、権力者達の考えが至極真っ当だったからである。 ──下手に命令に背いて、付け入る隙を与える訳にはいかないだろう?── 言いながらロンドベルトが笑ったのは、初めてその力のことを聞い
深淵の闇の中に、漆黒の衣服を身にまとった男がいる。黒い髪に黒い瞳を持つその人は揺らめくランプの炎を見つめていた。 いや、正確に言うと見えてはいないのだが、彼の脳裏には仄かなその光が確かに映し出されている。 彼の黒玻璃の瞳は、生まれつき光を持たない。 けれど、持って生まれた司祭に匹敵するその『力』が、あらゆる物を見ることを可能にしていた。 目の前にあるランプの炎はもちろんのこと、この部屋に置かれた調度品の配置もはっきり見えている。無論その力は戦場でもいかんなく発揮され、幾度となく混戦を勝利へと導いてきた。 その不思議な能力で味方からは神格視され敵からは恐怖の対象となっている彼の名は、ロンドベルト・トーループ。『不敗の軍神』『黒衣の死神』などという二つ名を持つ彼はだが、今は少々というよりかなり不機嫌だった。 なぜなら戦から首都へ無事帰還し軍本部へ戦況の報告に訪れるなり、明確な理由の説明もなく軟禁に近い状況に置かれてしまったからである。 静けさの中、扉を叩く音が響く。 入れ、との声に応じて室内に入ってきたのは、まだ年若い女性だった。 彼と同様、黒衣に身を包んだ女性の名は、ヘラ・スンといい、ロンベルトの右腕と言っても良い存在で数少ない彼の腹心の部下である。その手には、一枚の紙が握られていた。 「騒ぎの原因は、解ったかな?」 彼がここに押し込められる少し前から、首都にはいつになく騒がしい空気が流れていた。彼は帰還するなりそれを感じ取り、副官であるこのヘラに軟禁される直前、密かに調査を命じていたのである。 危機的状況であるにもかかわらずどこか面白がっているようなその声に、女性は呆れたような表情を浮かべつつも一つうなずいた。 「どうやら街に、敵国の密偵が潜り込んでいたようです。……捕縛された一人は残念ながら尋問中に自死したのですが、こんな物を」 差し出されたそれを手に取ると、彼はわずかに目を細める。 同時に、鮮明な画像が彼の脳裏に広
久しぶりに立った戦場は、ひどいものだった。まったく統制のとれていない敵軍は、勝機も見えないのに突撃を繰り返してくる。そのたびに無数の敵の屍(しかばね)が自陣の前に積み上がり、鉄臭い血の匂いが周囲に漂う。 自分が配備された場所は大隊長の守備という最前線から離れた場所であったから、直接敵と切り結ぶことはなかったが、遠目に見ても敵の攻撃はあまりにも無謀に見えた。やがて、臭覚が麻痺した頃、斥候から情報が入ってきた。 曰く敵の司令部は、圧倒的不利な状況に全軍を置いて逃げ出したところを運悪くこちらの伏兵とぶつかり、あっけなく崩壊したらしい。戦場に残された部隊は指揮系統を失い、戦線を維持するのも困難な状況である、と。 義父の心配は、どうやら取り越し苦労だったようだ。そう安堵の胸を撫で下ろした時だった。後背の大隊長の部隊がにわかに動き出した。 指揮系統を失った敵を叩きに、大隊長自ら前線に出るのだろうか? そんなことを思った刹那、単騎がこちらに向かってくるのが見えた。ほかでもない、息子だった。いぶかしげに見やる自分のもとに駆け寄ると、息子は早口にこう告げた。「父……中隊長殿、敵が来ます!」 自分は耳を疑った。自棄になった一部の敵が血迷ったのだろう、そう思った。だが、息子は青ざめた表情で一点を指差しさらに続ける。「あちらの方角です! 大隊長殿はすでに退避を初めておられます。中隊長殿は……」 息子が言い終える前に、息子が指差した方向から無数の矢が飛んできた。盾を構えるのが間に合わなかった者たちが、ばたばたと落馬していく。間近に落ちた矢には、所属する部隊を示す特徴は見られなかった。 一体どういうことなのだろう。 疑問に思ったのもつかの間、無数の馬蹄の音が近づいてくる。そこに現れた部隊の大部分を占めるのは、不揃いの武具を身にまとい、思い思いの武器を構えた一団だった。おそらくあれは……。「傭兵だ! 注意しろ!」 しかし、個々の武勲に固執し徒党を組むことの少ない傭兵達が、なぜ統制されているのだろう。し
初陣以来、息子は着々と軍功を重ね、自分など足元にも及ばないほどの速さで出世していった。それは無論『目』という特異な力もそうだが、それ以上に武芸に励んだ結果でもあり、勇敢さが評価されたためでもあった。 駄馬の家系から駿馬が生まれたようなものだと当初自分は自嘲気味に思っていた。しかし、息子はそんな自分を心底尊敬してくれていると理解したとき、その考えは消えてなくなった。ただただ息子が無事に生きて戻ることを願い、共に生きながらえることができたことを喜ぶのが無二の楽しみになっていた。 そんなことが続いて、何年かの時が流れた。息子は大隊長付の副官的立場となっていた。そして自分のもとにも新たな辞令が届けられた。久しぶりの前線勤務、役職は中隊長だった。 それを知った息子は、父上と共に戦えるのですね、と心底嬉しそうな表情を浮かべていた。だが、目を輝かせている息子とは裏腹に、自分はこの人事に何かきな臭いものを感じていた。 自分が前線を離れて、もうかなりの年月が経つ。鍛錬こそ怠ってはいないが、実戦におけるカンというものはだいぶ鈍っているだろう。そんな自分を、なぜ今更前線に引っ張り出そうというのだろうか。 しかし、自分は国に仕える武人である。どんな裏があろうとも、下された命令には従わなければならないのだ。吐息を漏らしながら、自分は自らの武具を手入れしている息子を見やる。 志願して武人になった息子ではあるが、果たしてそれは息子の本当の意思だったのだろうか。自分は、卑しい利己心から息子の可能性を潰してしまったのではないだろうか。そして、唯一の家族である息子を、何やら恐ろしいものの中に巻き込んでしまったのではないだろうか。自分は、人の親として許されざることをしてしまったのかもしれない。 しかし、なぜこんなことを思うのだろう。自らの思考に疑問を抱きつつ、自分は武具を整えていた。 ※ 出陣を目前に控えたある日の昼下がり、かつての上官……つまりは亡くなった妻の父であり、息子にとっては祖父にあたる人が、珍しく家を訪ねてきた。 妻のことがあってからすっかり疎遠になっていた人が、一体どうして。
息子の決意を聞いた自分は、それまで教育係に丸投げにしていた鍛錬にまめに顔を出すようにした。時には直接剣をあわせたり、組手をした。加えて用兵術の方は知人のつてを頼って、かつて何度も武勲を上げた高名な退役指揮官の元へ通わせることにした。 直に剣をあわせてみると、驚くべきことに息子はかなり筋が良かった。一方で用兵術の方も大変飲みこみが早いようで、このままいけばどこへ出しても恥ずかしくない指揮官になれる、との有り難い言葉を頂いた。 いつしか息子の身長は自分よりも高くなり、成年を迎えた息子は、徴兵を待たずに志願して自ら武人となった。配属されたのは偶然なのか忖度なのかは定かではないが、所属する分隊こそは違うが自分と同じ部隊だった。 複雑な思いにとらわれる自分をよそに、辞令を手にした息子は自分に向かって深々と頭を下げこう言った。「今まで私を育ててくださり、感謝のしようもありません。この上は父上の名を汚さぬよう、立派な武人となってみせます」 そして、以後は一兵卒として厳しくご指導いただければ幸いです、とはにかんだように笑って見せた。 もっともその頃は、息子の剣技の腕は自分よりも遥かに卓越したものとなっていたので、教えられることなど無いも同然だった。しばし悩んたあと、自分は息子の肩を叩きながら、こう告げた。 より長く戦ってこそ国のためになる。決して、死に急ぐな。必ず生きて帰ることを考えろ、と。 ※ 程無くして、我々に出陣の命が下った。自分は後方の補給部隊、息子は前線の攻撃部隊の配属だった。 敵国の内部に張りめぐらせていた情報網が崩壊した今、敵の動きをつかむのは至難の業だった。戦闘は後手後手に周り、攻撃を仕掛けてくる敵を迎え撃つのに充分な準備期間を取ることはなかなか難しかった。 短期間で補給計画を練る自分をよそに、息子は支給された真新しい武具を嬉々として手入れしていた。 果たして、また息子に生きて会うことができるだろうか。 気がつけば自分はそんなことを考えていた。そして内心首をかしげる。やはり自分の内面は変化したのではないだろうか。 それまで自分は、
諜報機関の知人に会い家に戻ってからというもの、息子は部屋に閉じこもってしまった。もともと自分と居間で話すことなどほとんどなかったが、その様子は明らかにおかしかった。なぜなら教育係による訓練にも出ては来なくなってしまったのだから。 辛うじて乳母が運んでいる食事は受け取っているようだが、それもほとんど食べてはいないようだった。深夜には時折泣き声やうめき声が漏れ聞こえてくるので、たぶん満足に眠れていないのだろう。 そういえば自分も思い返してみれば、初陣を生き抜いて戦場から戻ってきたあとには、しばらくの間眠ることも食べることも満足にできなかった。成人を迎えていた自分ですらそうだったのだ。それを考えれば、無理もないことだろう。 やはり異国の凄惨な光景をいきなり眼前に突きつけられるというのは、年端もいかない息子にとっては、受け入れ難いほど衝撃的なものだったのだろう。命令だったとはいえ、配慮が足りなかった。そう自分自身を恥じた。 そしてふと、自分はあることに気がついた。それまで愛情のかけらすら持てずにどうしたらよいかわからなかった息子のことを、自分は今こうして心配している。加えて、申し訳ないことをしたと後悔の念を抱いている。これは一体、どういうことなのだろう。 自らの中に突如として生まれたもやもやとした感情をうまく整理することができず、自分は室内をうろうろと歩き回る。果たして自分は一体どうするべきなのだろうか。熟考した末ある結論に達し、自分は意を決して息子の部屋へ足を向けた。 息子の部屋の扉は、その心の内を示すかのように固く閉ざされていた。大きく息をついてから、扉を三度叩いた。もちろん返答はない。 けれど、ここで戻ってしまっては、自分は二度と息子と向かいあうことはできない。そう自らを奮い立たせ、扉を押し開いた。 薄暗い部屋の中で、息子は寝台に突っ伏して低く泣いていた。一大決心をしてここに来たつもりなのに、自分は息子に対して何と言葉をかけてよいかわからず、ただ戸口に立ち尽くしていた。 と、不意に泣き声がやんだ。おそらくは私の気配に気づいたのだろう。そして、息子は涙にぬれた黒い瞳をこちらに向けてきた。「…